「六旗の下に」を”観戦”し始めて今年でちょうど10年の節目を迎えた。16日に東府中に出かけ、立教の「十字の下に」にお誘いして以来すっかり応援団の虜(とりこ)になってしまった某航空会社の元役員とともに、六大学の応援合戦を楽しく観戦した。
このブログに応援団のことを久しぶりに書くが、この間、書かなかったからと言って、団祭などを一切卒業していたわけではなく、若人の元気をもらおうと今も年に何度か団祭などの催事に出かけている。
この日の「六旗の下に」で印象に残ったことを幾つか書く。総じて、今年は「小粒」化を感じた。
僕はかねて、応援団はリーダーの「数の力」ではなく「個の力」だと強調してきた。「個の力」とは、日頃の鍛錬のあとが如実にうかがえる美技、技量のことであり、その考えはいまも変わらない。ただし、今回に限っていえば、慶応の「演出力」と「リーダー幹部の数の力」に魅了された。
慶応は、自校の出演順を念頭に置きながら演目の順を他大学と違うようにするなどして、われわれ観衆の見る目を意識したパフォーマンスを最初から最後まで徹底させていた。野球の全日本選手権の応援に回っていたリーダー幹部もなんとか最終盤には間に合い、広い舞台がそれこそリーダー幹部の横の隊列で背後の吹奏楽の面々やチア、リーダー下級生が見えないほどの威容である。司会もある意味、慶応らしさの期待を裏切ることなく、しかもそれが嫌みもない。「ショー」としてのパフォーマンス、徹頭徹尾こだわった演出で、総合点ではやはり慶応がよかったと思う。
他方、僕がいつも注意しながら見るのは、リーダー下級生のエールの際の風圧を感じさせるほどの腕の上げ下げと鋼(はがね)のようなしなりである。これはリーダーにとって「光速回転拍手」とともに基本中の基本であり、見ていて本当に惚れ惚れする美技だが、今年も期待を裏切ることがなかったのは、やはり法政と明治だった。ともに優劣つけがたく、リーダー下級生の迫力あるエールの美技に伝統の重さすら感じ、今年もすっかり魅了された。これこそ、普段の鍛錬の賜(たまもの)だろう。見ていて安心できるし、「さすが」とうならせるものだ。
リーダー幹部でも、明治の応援指導班はキレの良さが目立った。洒脱な司会もよかった。法政のリーダー幹部も僕の目には及第点だが、細かいが応援歌「若き日の誇り」を演舞する際、突きに入る前にもう少し体を前に傾斜させてその体勢に入るほうが、一連の動きが流れるように見えてよりいっそうきれいだと思う。
少し残念だったのは、立教のリーダー幹部と東大のリーダー下級生の演舞。前者のリーダー幹部は、今年は幹部が一人で大変だが、冒頭で述べた「個の力」が明らかに足りず、物足りなさを感じた。一人だからこそ「個の力」が遺憾なく発揮されれば「数の力」などものともしない迫力と余韻を残すが、その域に達してはいなかった。だから、リーダー下級生がどんなに頑張っても全体としては不調和であり、印象の薄いものとなってしまう。意気込みが足りないのか、技量不足なのかはわからないが、一人幹部ならこの10年に限っていえば、いまも応援部ファンの記憶に残るのはやはり東大第65代主将の岡崎幸治君だろう。彼は、圧倒的な「個の力」のすごさを文字通り体現した。
残念賞の後者は、東大のリーダーの下級生の貧弱なテク。東大だからといって応援部の諸君にゲタを履かせるのは失礼だから言うが、エールのテクに凸凹感が顕著で、観客席の僕の回りでは失笑さえ聞こえてきた。まずは基礎体力をつけて、エールのテクの基本を身に着けるべきだ。「彼ら下級生のうち、来年のこの舞台に何人残っているかな」とも思ったが、かつて僕が注目していた、当時は凸凹感が目立った立教の新人4人が見事4年後に幹部に上り詰めたケースがあるように、大化けすることもあるので、ぜひ続けて頑張ってほしいと願う。
最後に、いつもあまり触れずにいるのはわが早稲田。オーソドックスで無難な仕上がりだが、エッジがいまひとつきいておらず「大味感」は否めない。それが早稲田の特徴だといわれればそれまでだが、慶応の演出は大いに参考になると思う。
あと少し、細かい点だが、大太鼓の打音が鼓手によってかなり違う。キレのあるエールのテクには、やはりキレと迫力のある打音が必要で、いくつか打音が物足りなさを感じる場面があった。吹奏楽の指揮では、同好の元エアライン幹部によれば、法政の指揮者が裏方に徹する姿勢が伝わってくるようでリーダーたちとの一体感があり、一番よかったという。僕はそこまで細かいところは見ていなかった。音楽に造詣の深い人ならではの感想だろう。
去年から会場が府中芸術の森劇場に移ったが、僕は日比谷公会堂のほうが好きだった。日比谷公会堂の老朽化と耐震不足の一方、年々高まる「六旗人気」で、収容数が大きいハコへの変更は仕方ないかもしれないが、日比谷公会堂のほうが太鼓の響きが全体にこだまし、会場に一体感があった。客席は狭く、傾斜はきついが、「六旗」の洗練されてほしくない一途さと頑固さが日比谷公会堂では感じられた。
自らの齢を重ねていくことが止められないように、隔世の感が進むのも仕方あるまい。
いずれにせよ、今年もすっかり元気をもらって会場を後にした。すっかり足取りが軽く、気持ちも軽やかで、僕は会場の外の交差点で整理に当たっていた明治の応援団下級生に「ご苦労さま」と声を掛けた。自然にそうさせるほどの魅力が、「六旗」には詰まっている。